明治時代、福岡県八女郡は豊かな自然に囲まれ
良質な農産物の宝庫でした。
当時はまったくの無名だった
「八女茶」を世に広めたいという思いから
お茶の行商を勇七がたった一人で始めたのが
梅野製茶園の始まりだと
言い伝えられています。
大正十年、そんな勇七の想いを
引き継いだのが佐七でした。
佐七は手揉みでお茶を製造しました。
佐七の手はまさにグローブのようでした。
佐七のお茶は大そうな人気で、
自分で飲むお茶がないと嘆いていたそうです。
そのような、佐七の嘆きを
聞いていたのが三代目什(たもつ)でした。
什は手動式の製茶機械を自ら設計し
手揉みのお茶を超える品質と効率化を実現したのです。
この噂は瞬く間に広まり遠方から
什のお茶を買付に来る商人もいたと
語り継がれています。
四代目保二の茶作りへの探求心は更に深まります。
保二は、茶畑で生の茶葉を噛んで茶樹と対話し
茶樹の健康状態を把握していたと
語り継がれています。
そのような保二が作るお茶は
日本全国から多くの引き合いがありました。
五代目英敏の時代になると食生活の洋風化により
日本茶を飲む人が減ってきた事を実感します。
そこで自らお茶の素晴らしさを
伝えていかなければならない
という使命感から小売業を本格的にはじめます。
そして今、受け継いだ百年の想いを
多くの皆様にお届けするために、
全国有名百貨店の催事や通信販売を
展開しています。
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